入院に期待したんだけどな
この病気で入院までするケースは少ないらしい。でも、私は二回も入院してしまいました。「入院という普通しないようなコトをするんだから、かなりよくなるだろう」と、周囲は思っていたし、私もそう思いたかった。
残念ながらそれほど良くなったという実感はもてませんでした。まあ、もし入院しなかったら、もっと悪化したかもしれないから、効果はあったのかもしれないけれど。
入院してはじめて、「検査入院」「教育入院」というものがあることを知りました。いろいろあるんだね。「検査入院」はその名のとおり検査のための入院、「教育入院」は自分で在宅ケアができるようにやり方を身につけるためのもの。実際、4人部屋で入院中、糖尿病の教育入院してきたおばさんがいました。
私の入院は言ってみれば「新しい抗生物質を試すための入院」。
1度目の入院時の抗生物質はストレプトマイシン。結核の特効薬ではあるけれど、難聴という副作用の出やすい薬です。昔から「ストマイ難聴」という言葉があるくらい。入院中、夫が差し入れてくれた昭和初期の日本文学にその描写があって、苦笑いしてしまいました。
副作用が出たときにすぐ対処できるように、お医者さんの手がいつでも届くところに患者をおくための入院なので、1カ月の入院期間がおわったところで、ストレプトマイシンの注射を終わりにできるわけではありません。劇的な効果が出るとも限らない。
それでも、周囲は期待する。私もちょっとは期待した。
この「期待」のゆえに、パートの仕事を辞めるのが遅くなったかもしれない。周囲に負担をかけたかもしれない。
入院にたいする期待値をもっと下げとくべきだったかな、と思うことがあります。ただ、これ以上期待値を下げてしまうと、それは「自分の病気はもう治らない」と完全にあきらめることになる。
「あきらめた病人」に対して世間は冷たい。
世間の人々のアタマにも、私のアタマにも、「病状が末期的なのに、明るく、前向きに生きているけなげな病人」というテレビでおなじみのイメージが焼き付けられているらしい。
泣ける映画を観たり、漢方医を訪ねたり、「入院」に期待してみたり…。もちろん、自分のための努力だということは、わかってはいるんです。ただ、そこには、「私、あきらめてないですよー、がんばってますよー」という虚しいアピールが必ず含まれている。だれに頼まれたわけでもないのに…
そんな自分のココロのあり方がつらい夜もある。酒でも飲んであれたいけど、免疫力落ちるからなー