非結核性抗酸菌症そらりす

非結核性抗酸菌症の患者の日常・投薬歴・入院歴です

台風は被害にあわずにすみそうな気配

雨も風もいちおうおさまったようで、被害は受けずにすみそうな感じです。あ、でも、上流にあるダムの放流問題があるから、気を抜いてはいけないのですが。

 

今回、自宅が一階ではなかったこともあって、避難はしないですみました。もし避難が必要だったとしたら、私は避難場所の学校や役所まで早くは歩けなかっただろうし、水や食べ物もたくさんは持てなかっただろうし、夫にかなり負担をかけることになったでしょう。

 

普段から不健康でひ弱だと、こういう時にさらに困るんだな、ということがわかりました。

 

先日バスにのろうと停留所で待っていました。待っている客は三人。杖をついたおじいちゃん、ショッピングカートをしんどそうにひきずるおばあちゃん、どう見ても病人の私。

 

健康そうな人間がだれもいない。バスがきて、三人とものろのろ乗り込むと、おなじみのアナウンスが聞こえます。

 

「災害時は小さな子供やお年寄りの手をひいて、避難しましょう…」

 

この三人じゃ、誰も小さな子供の手なんかひけないよ。私以外の二人は自分がお年寄りだし。年齢的にはどうにか活躍できそうな50代の私が座席で息切れを必死でおさえこんでいるこのありさまじゃあ…

 

この体じゃあ、自分が困るだけじゃなく、人の役にもちっともたてない。

 

次の停留所で元気そうな30代、40代くらいの人たちが乗りこんできて、なんだかホッとしましたが。

 

ホッとしちゃっていいものかどうか。よくはないよな…

 

もう少し、健康体になれますように。痩せすぎで栄養点滴の話も出ているくらいだから、すぐには無理だけど。もうちょっと体操したり、食べたりして努力しないといけない。

 

 

 

 

チママンダつづきを読む

窓が一か所だけ雨戸がないタイプだったので、養生テープを貼りました。非常食として、クラッカーやバナナも買ってあります。

 

あとは、明日になってから水のくみおきしたりすればいいかな…あいかわらず大したことはやってないんですが、またへとへとに。横になりたい。

 

横になると本を読むかテレビを見るくらいしかできないので、チママンダの続きを読みました。

 

短編集ですが、やっぱり表題作の「なにかが首のまわりに」がいちばんいいかな。生まれも育ちもまったく違うボーイフレンドとの恋愛で経験する違和感のようなものが描かれています。

 

ナイジェリアは英語が公用語なので、アメリカ人のボーイフレンドとの言葉によるコミュニケーションにはまったく問題はありません。

 

英語が公用語、普段はイボ語。バイリンガルが普通なのか、いいなあ、とうっかり思ってしまいましたが、これはナイジェリアがイギリスの植民地だったからで、うらやむような話ではないわけです。

 

たしか、もう何年も前ですが、村上龍のメールメディアで春呉(はる えれ)さんという書き手が、「今、いちばん完璧な英語を話すのはアフリカ系だ」という趣旨のことを書いていました。

 

たぶん、イギリスに移住するぶんには、その英語できっとよいのでしょうが、今ではアメリカに向かう人が多いのかもしれません。

 

チママンダの小説に出てくるナイジェリアの上流の人たちは、アメリカに行ってなんらかの社会的地位を得るために、その地位の人たちの仲間に入れてもらうために、イギリス英語を多少変えているようです。

 

他の短編では完璧なイギリス英語を話せるナイジェリア人の男性が、アメリカで医師として成功するために、アメリカ流の言い回しを妻にまで強引に学ばせようとするシーンが出てきます。

 

確かに、どんな言葉づかいをするのかって大切ですよね。そこで生きていくためには。

 

長いこと、日本人にとって外国語は主にその国の知識や技術を学ぶためのもので、その国でやっていくためのものではなかったし、植民地支配もされなかったから、言語を強いられることもなく…だから、外国語は書物から情報だけ得るのに使えればいい。

 

「内容」がゲットできればいい。だから、しゃべり方なんて関係ない。むしろしゃべれなくたっていい。しゃべれなくたっていいから、たぶん、しゃべれないんだと思います。

 

日本は植民地支配を受けることのなかった珍しい国、しかも、その後経済発展したせいで、外国に移住する必要性が低かった珍しい国なんだなってことが、よくわかりました。

 

私も外国文学好きだけど、英語もしゃべれない。悲しいなと思います。しゃべり方以前の問題です。もっとも、今、息切れで日本語もつらいありさまですけど。

 

 

 

 

 

 

台風に備えて少し買いだめ

台風19号に備えて、野菜をすこし買いだめしました。

 

といっても、ほんの少し。なのに、もう重くて重くて家までたどりついたときにはへとへとになってしまいました。バスを使っているからそんな大した距離歩いてもいないのに。

 

こうも弱体化してるとは、情けないです。でも、あきらめてなにもしないとほんとになにもできなくなるので、ここで踏ん張っておかないと。

 

今のところ、災害の被害はほぼ受けないで生きてこられたけれど、これからはわかりません。さっそくこの台風でなにか被害を受けるかもしれない。

 

せめて気持ちだけでも強くもっていたい…とりあえず、もう少しなにか食べよう。

 

 

高齢の親の差別感情について

私の親はもう80代後半。後期高齢者で、すこし認知症も出てきています。

 

その親が、ときどき差別を口にするらしい。

 

まず、朝鮮半島の人々、たぶん中国人、東南アジア一般も差別していると思います。なぜ「らしい」とか「思います」なのかというと、親が差別を口にするのは、姉の前でだけだから。私の前では少なくともあからさまには口にしないから。

 

なぜか、姉には言うらしい。そこで姉は激怒。姉はまじめだからどうしてもこういったことが許せないらしい。

 

なぜ、姉の前では差別を口にし、私の前では口にしないのか、私にはわかりません。おかげで、親からの差別意識の引継ぎはあまりしないですんだので、結果的にはよかったと思っているのですが。

 

差別でなないけど「きらい」ということでは、イタリアに関しては、両親ともにきらいだな、とは若いころから思っていました。こちらは差別ではないからなのか、私の前でも多少口にしていました。

 

理由は、しばらくしてわかりました。1980年代くらいまでは、日本人がドイツにいくとドイツ人のおじさんたちから「次はイタ公抜きでやろうぜ!」といわれることがあるという話を聞いたからです。

 

つまり、第二次大戦中の枢軸国からはじめにぬけたイタリアがまだ許せないってことだと思います。

 

私が疑問に持って推理しなければわからなかったと思います。とにかくあまり話をしない家庭だったので。

 

こうして書いてみると、私の親が差別しまくって、偏見もちまくっているような感じですが、そういうわけでもないと思います。少なくとも外から見るかぎり、まじめで穏やかな日本人です。

 

私の親の年代の差別感情は、この国の歴史をみれば、そう不自然なものではないように思えます。これは差別がいいといっているわけではありません。

 

私の親はその後の世の中の変化に対応して、差別を口にしないようになっていったんだと思います。それが、高齢でタガがはずれてきているんだろうと思います。

 

それが、よくいっしょにいる姉の前では遠慮がなくなって、たまに会う私の前ではすこしはかっこつける、という形で出ているように思います。(姉にとっては迷惑な話ですが。)

 

差別感情自体をなくすことはたぶんむずかしいから、知性や礼儀や処世術でフタをすればいいんじゃないかと私は思っています。私の親はある程度そうしてきたのかもしれない。でも、高齢になってそのフタがゆるんできたのかもしれない。怖い気がします。

 

もし、まじめな姉が差別感情自体をなくすことができると思っているなら、それもちょっと怖いけれども。

 

学校では現代史はさけたような授業だったし、「敗戦」を「終戦」といってごまかしてきたんだし、それだから落ち込みすぎずに経済発展できたのかもしれないし…いろいろ考えてみると、なにかよくわからなくなってきます。

 

 

そうだったのか! 現代史 (集英社文庫)

そうだったのか! 現代史 (集英社文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

脳にシャッフルをかけるための読書

チママンダ・ンゴスイ・アディーチェの「なにかが首のまわりに」のamazonによる説明は、以下のとおり。

 

ラゴスからアメリカに移民した若い主人公がエクストラ・ヴァージン・オイル色の目をした白人の男の子と親しくなる表題作(「アメリカにいる、きみ」改題)のほか、「ひそかな経験」「明日は遠すぎて」など、人種、ジェンダー、家族にまつわるステレオタイプな思考を解きほぐす、天性のストーリーテラーの切なく繊細な12の短篇

 

この本を読もうと思ったきっかけは、ネットで「シングルストーリーの危険性」というspeechを読んだことです。これは、ステレオタイプなものの見方の危険性を語ったもので、有名なスピーチらしい。

 

どうしてこんなスピーチにたどりついたかというと、パキスタン移民を主人公とする探偵小説でいささか戸惑い、自分がステレオタイプな小説の読み方をしていることに気づいてしまったから。そこで脳にシャッフルをかけるべく、チママンダにたどりついたのですが…

 

当然、この本でもまた戸惑いました。それも作者が意図する以前のレベルで。

 

まず、アフリカ人の名前にまったくなじみがありません。まずここで、私は「アフリカ人の名前」というじつに雑なカテゴライズを行っています。

 

「アフリカ人の名前」は「アジア人の名前」というカテゴライズに似ています。そのカテゴライズだと、日本人と中国人、パキスタン人、インド人、十パひとからげ。

 

それはするまいと思っていたのにやっぱりやっちまいまいました。アフリカ広いのに。いろんな国あるのに。

 

なじみのない名前だと、その名前の持ち主が男性か女性かもわからない。そうなると、物語にはいっていくのに少々苦労します。

 

これは…作者が意図する以前の問題。登場人物がオトコかオンナかわかれば、ストーリーにはいっていけるんだね、オマエは…それって、いいのかどうなのかわからなくなってきました。

 

もちろん、読者側に共通の認識のまったくない小説は読んでいけるはずもないのですが。

 

脳にシャッフルをかける意味ではこの読書は正解のようで、1ページめからシャッフルされてしまいました。

 

だから、これでいいんだけど、そういえば病気なんだよな、私は。痩せさらばえた体にムチうってこんな本を読んでないで、もうちょっと疲れないもの読んだほうがいいのかもな…。

 

チップス先生さようなら」で泣ければいいんだけども。もうとっくに無理。

 

歩くスパゲティ症候群にはなりたくないのが本音

在宅酸素につづいで、在宅栄養点滴もすすめられてしまいました。ひと昔前なら病院でしか受けられなかった治療が在宅でもできるのは、とてもありがたいことです。

 

とてもありがたいとわかっちゃいるけど、じゅうじゅうわかっちゃいるけど、「もしこのふたつを両方やったら、歩くスパゲティー症候群みたいだな」というばちあたりなツッコミが心の奥から聞こえるような…

 

なんとか回避したいというのが本音です。

 

とりあえず太れればいいんだけどな。もうちょっと身をせめて食べるべきなんだろうな。太りたければ1500キロカロリー必要なところ、1000~1100、1200でせいいっぱい。基礎代謝はネットのサイトで計算したら920。微妙な数字。

 

今日はそれでも今のところ1176。1500にはあと324キロカロリー足りない。

 

 

いつでも食べられるようにゴハンはたいてあります。これから食べるしかないな。

 

気をまぎらわすための読書は進行中。読みながら食べるというお行儀の悪いスタイルならけっこう食べられることもあります。とはいえ、今読んでいるのはナイジェリアの作家チママンダ・ンゴスイ・アディーチェの「なにかが首のまわりに」。ながら読書にはむかない真摯というかきつい内容ではあります。