非結核性抗酸菌症そらりす

非結核性抗酸菌症の患者の日常・投薬歴・入院歴です

食べるということ

茶碗蒸し味の栄養ゼリーが一個残っています。最後の入院中に出されたもので、食べきれないままウチに持って帰って、そのままになってしまいました。

栄養ゼリー、そらりすはあまり好きではありませんでした。コーヒー味のものはなんとか食べるのですが、茶碗蒸し味は苦手だったようです。

「一個だけ残しといてもしょうがないから、さっさと食ってしまえよ」

と私が半分冗談で言うと、彼女は小芝居で悲しそうな動作をして笑わせました。

 

結核性抗酸菌症は日和見感染ですから、症状を改善するには体力をつけることがなにより重要です。体力をつけるには、食べて体重を増やすこと。なのに、この「食べる」ということができないのですから、困ったものです。

「部活やってる高校生みたいに食べてください」とドクターは言うのですが、私たちが知りたいのは、「どうやったら食べられるようになるんですか?」ということなのです。

「食欲がない」という訴えに対してドクターは、胃腸薬を処方してくれるだけです。その次は消化器内科医による診察。とり立てて異常がないとなると、あとは「栄養士と相談してください」ですが、栄養士さんも、入院食に栄養ゼリーを一個プラスしてくれるのがせいいっぱいのようです。

世の中には、痩せたい人のための情報・グッズの類はあふれ返っていますが、「太りたい」で検索しても、これといった情報は表示されません。

メンタルに問題があるのではないかと考えて精神科を受診したこともありますが、そちらのほうは正常と言われました。

 

たしかに、そらりすは幼いころから極めて食が細い子どもだったようです。「幼稚園のころ、持たせてやった小さなお弁当も少ししか食べられなかった」と彼女の母親から聞いたことがあります。給食も食べられなくて、昭和のことですから、「食べ終わるまで帰ってはダメ」と居残りさせられることがしばしばだったようです。

そんなそらりすでも、少女時代には料理に興味を持ち、お菓子作りなどにもハマって、巨大なプリンだかババロアだかを丼でつくったことがあると武勇談を語っていました。私たちが出会ったころも食欲はふつうにあり、当時の女子大生にはデートで食事をするときには少し残すのがかわいいと考えている人も少なからずいたようですが、そらりすはそんなことおかまいなしに完食していたのです。結婚後も、料理は私たちの共通の趣味のようになっていて、餃子を皮から手作りするのはふたりの楽しみの一つになっていたものです。

 

そらりすの食欲が落ちていったのは、中年になってからだったように思います。体重が40㎏を下回り、少し丸みがあった時期は仮の姿で、子ども時代の虚弱でガリガリの身体が本当のそらりすだったのでしょうか。

「出会ったときだけ元気で、だんだん弱っちくなって、詐欺みたいだね」と彼女は言っていました。

今さらのように考えるのは、あの時期に運動でも始めていたらよかったのかな、ということです。身体を動かして食欲と筋力を維持していれば、日和見感染を免れることもできたのかもしれない。

 

そして、一度発症してしまったら、食欲と体力の回復はかなり困難であると考えるしかないのかもしれません。咳や発熱をくり返すうちに身体を動かすことはますます辛くなり、それでさらに体力が落ちる悪循環です。

去年(2020)の入院後、在宅療養となったそらりすは食事の宅配サービスを利用するようになりましたが、病人向きの薄味にそらりすはすぐに飽きてしまいました。ふつうの人なら飽きても無理矢理食べてしまうのでしょうが、もともと食欲が落ちているのに加え、「おいしくない」となったら「お腹いっぱい(=食べられない)」となってしまうのがそらりすという人です。これは子ども時代からそうだったようで、とても困った意味でのグルメなのです。料理にハマるくらいですから、味覚にはとてもうるさいのです。わがままといえばわがまま、繊細といえば繊細。そんなだから虚弱なのか、虚弱だからそうなのか、なんとも言えません。

「食べろ、食べろ」と無理強いすることは私にはできませんでした。してはいけないと思いましたし、仮にやったとしても逆効果だったような気がします。

 

太りたい人向けの数少ない対策の一つとして、「食べたいと思ったものを食べる(食べたくないものを無理に食べようとしない)」というのがありますが、そらりすに残されたのもそのやり方だけでした。

固いものは避ける。身体が熱っぽいのか、熱いものもあまり受け付けない。となると果物です。GWごろからはイチゴをよく食べていました。それだけでは栄養が足りないことは本人もよくわかっていて、メイバランスはできるだけ飲むように心がけて。

調子がいい日もたまにはあって、私がつくる簡単な料理を、半分はお世辞でしょうが、「おいしい」と言って食べてくれました。

ひとりのときは冷凍したご飯を解凍してふりかけをかけて。インスタントの味噌汁は、自分でお湯も沸かしてつくっていました。最期の日もまさにそうでした。使った食器がテーブルに置いてありました。少なくともお昼頃までは、そんなに具合は悪くなかったのです。がんばって食べていたのでした。

 

彼女が最後までがんばっていたことを私はうれしく思います。同時に、しんどかったのならそこまでがんばらなくてよかったのに、と胸が痛みます。

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在宅酸素療法と障害者認定

HOTをもっと早く始めていたら状況はちがっていただろうか。どうしてもそう考えてしまいます。

HOT(Home Oxygen Therapy 在宅酸素療法)で非結核性抗酸菌症が治ることはないにしても、呼吸が少しでも楽になれば食事も苦痛でなくなって、体力を維持することも可能であったのかもしれません。

逆に、何故そらりすがすぐにHOTを導入しなかったかといえば、やはり経済的な事情が大きいです。

 

昨年(2020)12月の診療明細を見ると……

 

在宅酸素療法加算(その他)                100

呼吸同調式デマンドバルブ加算            300

酸素ボンベ加算(携帯用酸素ボンベ)            880

在宅酸素療法指導管理料             2400

酸素濃縮装置加算                                             4000

 

とあります。

この点数の見方というのが私はよくわからなくて、そらりすの場合は身体障害者となって自己負担なしで使用できていたため、具体的にいくらぐらいの金額になるのかはっきりしたことは言えないのですが、一と月あたり数万円と思っています。

そらりすは、病気と治療方法については熱心に勉強・リサーチしていましたから、そのくらいのことはかなりまえから知ってはいたかもしれません。ご家庭によってはものすごく重い負担という金額ではないのでしょうが、ウチではそこそこ値の張る漢方薬を買ったりもしていて、その時点では確実に効果があると断言もできないHOTを「とりあえず試してみる」ことには二の足を踏んでいたというところもあります。

身体障害者に認定されてHOTが費用負担なしで使えるともっと早くわかっていたら、と今となっては悔やまれるのですが、当初はそらりすが認定を受けられるとは思ってもいませんでした。

「障害者の申請をしたらいいのでは」と最初に言ってくれたのは、そらりすが入院中に担当してくれた看護師さんのひとりだそうです。

外来受診中にドクターからそんな意見が出たことはありません。この点でも恨みを言いたい気持ちは少しあるのですが、仕方ない面もあって、申請しても認定されるかどうかは微妙だとドクターたちは思っていたようです。

しかし、申請のための動脈血検査の結果を見て、ドクターたちは「これは!」と驚いたとかで、この辺りも私はよくわからないのですが、どうしてそれまでにこの検査をしなかったのか? そういうものなのでしょうか。

 

いずれにしても思うのは、「もっと他の治療方法はないのか?」「費用を抑える方法はないのか?」と病院側をうるさくつっつかないとダメだったんだな、ということです。ドクターが支援制度などの情報に疎いとしても、事務の人に訊くとかホームページを隅から隅まで見るとか。

そらりすが身体障害者一級の認定を受け、負担なしでHOTを使えるようになった経緯をたどってみると、まったくの偶然のような気さえします。病院に医療相談の窓口があることも、障害者申請の件で相談員の人に面会するまで知りませんでした。

 

あと、制度自体への不満も言わせてもらうなら、障害者と認定されるほど悪化するまえにHOTを低料金で利用できるようにしてほしいものです。特効薬がない非結核性抗酸菌症の場合、食餌、リハビリなどにくわえて、そのような体力を落とさないための措置・サービスが重視されてもいいと思うのです。

ブログ、しばらく続けます

そらりす夫です。

妻の病気について、少し書いてみようかなと思っています。夫婦として体験して来たことが、おなじ非結核性抗酸菌症の患者の皆さんに、もしかしたら少しはお役に立つかもしれないと考えたからです。

とはいっても、そらりすがこれまでに書いて来たことと重複することばかりになる可能性も大いにあります。

実は、私はそらりすのブログをまったく読んでいません。「読むな」と言われていたわけではないのですが、読んでほしければはっきりそう言うタイプの人でしたので、ずっと読まずに来ました。

そして彼女が旅立った今、遺された文章をやはり私は読めないでいます。最後の入浴のエピソードだけは目に入ってしまって読んだのですが、あの前向きな言葉が私にはとても悲しくて、ほかの記事も同様に「受け止めるのがつらいだろうな」と思えてしまうのです。

ですから、過去記事は読まないままで、当分は進めていきます。ダブった内容でも、夫の目から見たことが情報として少しでも意味があったなら幸いです。

最後の日のこと

引き続き夫です。そらりすの最後の状況について少しだけ書きます。

 

そらりすの直接死因は喀血です。タイトルにある非結核性抗酸菌症によるものです。

かなり大量の喀血でした。

発症したときから血痰はたびたび出ていて、喀血というレベルの少量の出血もときどきはありました。しかし、あれほどの出血となると私は見たことがなく、もし彼女が見せまいとしていたとしても、とても隠せる量とは思えません。

最後のブログにもあるように、前日から当日朝のそらりすは比較的元気で、4月の苦しかった時期を乗り越えて快方に向かうのかなと思いながら私は出勤しました。

10時ごろ、LINEで他愛のないやりとりをしました。その後私は忙しく、次にLINEを送ったのは午後3時過ぎでしたが、既読にはなりませんでした。

18時過ぎに退勤し、家の近くのスーパーから電話をかけたのですが、彼女は出ませんでした。妻が電話に出ないのはよくあることで、「知らないうちに機内モードになってた」とか「出ようとしたけど切れた」とか言い訳をするのですが、今度もそのパターンだろうとは思ったものの、なぜか気になって急ぎ気味に帰宅し、ドアを開けると酸素吸入器の警告メッセージ「カニューラが詰まっています」がくり返し聞こえていました。そして、寝室に行くと、血だまりの上に倒れた彼女の姿が目に入りました。名前を叫んで抱き起こしましたが、もう息をしていませんでした。

慌てて訪問看護のナースに電話して来てもらい、ナースはドクターを呼んで、死亡が確認されました。

ゴミ入れには、多めの血を吸ったティッシュが入っていました。出血は少しずつひどくなっていったのだと想像されます。しんどくなったらナースを呼ぶんだよと言ってありましたし、「そうだね」と当人も理解していたはずなのですが、電話しようとしていた矢先に、そんな余裕もない状態に突然見舞われてしまったのでしょうか。

いずれにしても、彼女をひとりにしておいたことがとても悔やまれます。やむを得なかったとは言っても、自分を責めずにはいられません。

すぐに対処していれば助けられたのか、それとも、あれほどの大量喀血ということは、肺のダメージがついに限界に達して、どうにもならなくなってしまったということなのか、素人の私にはなんとも言えないのですが。

ここ1、2年の彼女の苦しみを見ていて、こんな日がいつか来ることはある程度覚悟はしていました。けれど、まさかこんなに早く来てしまうとは。彼女自身はどうだったんでしょう? 少なくとも今はもう苦しみからは解放されたはず、と私としては思いたいです。思いたいだけです。

 

こんな話をして、おなじ病気の方々を脅かすようで申し訳ないのですが、こんな例もあるということを知っていただいて、今後の治療の参考にしていただけたらと思います。

おしらせ

そらりすの夫です。

 

そらりすは、5月11日、亡くなりました。

 

短い間でしたが、このブログを読んでいただいた皆様に感謝いたします。

 

このブログの今後については、ゆっくり考えたいと思います。

3ヶ月ぶりに入浴できました

やっと入浴できました。

3ヶ月ぶりでず。ずっとベッドでシャンプーだけ。

退院してから1度はいって、39度台の熱。その後もはいって38度の熱。

往診の先生と相談して、オプソをあらかじめ飲んでおくことと、酸味を3から4に上げることにしました。

 

その条件付き、酸素は4.5まで上げて入浴。湯船にはいらず、シャワーだけ。短時間で。

 

今のところ熱は出てきません。これで成功かな?油断できないけど。

往診二度めはばっちり

今日、二度めの往診を受けました。前回の時より体調よく、聞きたかったことも残らず聞けて満足です。

やっぱりメモって大切ですね。

 

今回のメモはほとんど薬について。

 

ロキソニンは1日に何回まで飲んでいいか→3回まで

 

オプソは1日何回まで→回数上限なし。間隔を1時間あけるだけ。

 

アドナ(止血剤)は毎日飲んでもよい。1日3回。

 

ラニキサム(止血剤)も出してもらう。

 

あとは、入浴後疲れて体調悪化するので風呂にはいれない件

オプソを入浴1時間前に飲んで体調を整えておく。

入浴時の酸素量を3から4に上げる。


この入浴対策は期待でrきそうです!