食べるということ(続き)
コメントをくださった方、ブログを読んでくださっている方にお礼を申し上げます。
そらりすにとっての「食べること」について、思い出したことをもう少し続けます。
栄養が少しでも摂れる食事について研究しようと思って、本を一冊買ったことがあります。本格派のとても手の掛かる調理法で有名な料理研究家が、病人向けのスープのレシピをまとめた本だったのですが、これを手渡したとき、そらりすは珍しく怒りました。
「ふつうに料理することもできなくなってるのに、こんな大変なことができるわけないじゃないか」
というのです。
私としては、「この本読んで自分でつくれ」というつもりで買ったわけではなく、本の通りの料理はできなくても参考になる情報があったら取り入れよう、食べたいと思うレシピがあったら真似してみよう、むずかしいことはやらなくていい、料理は自分がやるが気が向いたらいっしょにつくってもいい、というほどの気持ちだったのですが、説明しても受け入れそうにない雰囲気が彼女にはありました。ふだんなら話してわからないような人ではないなのですが、議論を続けるのは憚られる気がして、結局本は棚に飾られるだけになってしまいました。
そのときのそらりすの胸の内が、正直いって私にはよくわかりません。なんとなくはわかるのですが、どうしても他者には理解が及ばない、彼女だけのブラックボックスのような領域があるような気がします。それは、病気と闘っている当事者にしかわからない、ある種の絶望的な気分であったのでしょうか。
病人に限ったことではなく、人が人を100%理解することなどそもそも不可能なのかもしれません。できるのは、ただ寄り添うこと。
そうやって自分を納得させようとしても、それでもやはり納得できないところは残るのですが……
こだわりの超絶スープは拒否したそらりすですが、カップ麺はよく食べていました。マルちゃん麺づくりの味噌がずっと好きだったのが、あるときから担々麺に変わって、最後の日々は、少し調子がいいときにはそればっかりでした。宅配サービスや病院の食事の薄味とは対極の、ピリ辛濃厚味です。
当人が好きなのだから、それが正解だったのだと思います。食べたくないものを無理に食べようとして結局食べられないよりは、食べたいものを食べる。
残念なのは、週に一食か二食が限界だったこと。毎日食べられていたなら、体重も維持できていたのでしょうが。
「パンが食べられないならケーキを食べればいいのに」と言ったのはマリー・アントワネットだそうですが、そらりすの場合は、「ご飯が食べられないなら麺づくりを食べればいいのに」といったところでしょうか。
ジャンクでもゲテモノでもいいから、そらりすのノドを通る食べ物を見つける努力を、もっと早く始めていればよかったです。
最後の数週間は、イチゴしか食べられない日が多かった、と前回書きました。これなら食べられるのでは、と考えて用意したものがやはり彼女の口に合わなくて、がっかりしたことも少なくありませんでした。正直、毎日しんどかったです。けれども今、自分ひとりのための食事の準備をするのは、とてもつまらないです。