非結核性抗酸菌症そらりす

非結核性抗酸菌症の患者の日常・投薬歴・入院歴です

お地蔵さんまで

サントリー美術館伊藤若冲与謝蕪村の展覧会が開かれたとき、ひさびさに二人で都心に出かけました。夕方、閉館が近い時刻であったため、地下鉄の改札を出たところで、「急ごう」と私はそらりすを急かせました。けれども、少し早足で歩いたら彼女の足は遅れ始めました。

「ダメ、ちょっと無理」申し訳なさそうにそらりすは言いました。

ほんの少し早く歩くこともできないレベルにまで病気が進行していたんだな、と今になって気づくのですが、そのときの私は、一時的な不調という程度にしか捉えていませんでした。

若冲と蕪村」展が開催されたのは2015年3月~5月です。美術館のホームページで調べてみて、ああなるほどと思いました。そらりすが1回目の入院をするのは、約半年後、翌2016年の年明け早々です。

発症が2009年。頭痛とか帯状疱疹とかに悩まされながらもどうにかふつうの生活ができていた時期が終わって、息苦しさとの闘いのフェーズに入ったのが、約6年たったこのころだったと今になって思います。

 

この息苦しさという症状ですが、それがどんなものなのか、当事者ではない私には正直いってわかりません。風邪をひいて鼻がつまったときやプールに潜ったときのあの感じかな、と想像はしてみても、想像は想像にすぎません。

 

息苦しさはその後の数年でだんだん度を増して、そらりすが外を出歩くことができなくなったのは、去年(2020)の7~8月ごろではなかったかと思います。

わずか一年まえのことなのに、いろいろあったせいかはっきり思い出せないのですが、少なくとも去年の今ごろまで、そらりすは月一回の通院には一人だけで出かけていました。自宅からバス停まで、健康な人なら3分、乗車5分、バスを降りて病院の受付まで2分くらいの道のりですが、付いて来てほしいと私に言うことはありませんでした。しかし、本格的な夏に向けて、暑いなかでの外出は身体に負担が大きいし、コロナの不安もあったため、ドクターと相談して受診は秋まで見合わせることにしたのでした。

通院を中断してすぐに外出もやめてしまったというわけではなかったはずですし、近所のスーパーに買い物に行くくらいのことはできていたのではなかったでしょうか。買い物も辛くなって、もっと近い距離の散歩だけになったのはいつごろだったか? それとも、買い物に出る必要がなかった日でも、少しは歩かなきゃと散歩をしていたのだったか……?

散歩のコースは、自宅近くのお地蔵さんの小祠まで。健康な人なら2、3分ですが、そらりすは往復に15分くらいかかっていたでしょうか。

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「どこまで行って来たの?」

「お地蔵さんまで」

というのが、そのころの私たちの会話のパターンになっていました。

調子がいいときは、もうちょっと足を伸ばして細い道から先のバス通りに出る地点まで。それでも、最寄りの駅までの距離の半分にも満たなくて、もっと歩けるようにならないとなあと私は正直なところじれったかったのですが、長時間歩くことには、単に身体的な辛さとは別の悩みもあったようです。

それは、ゆっくりゆっくりと歩を進める上にときどき立ち止まって休んだりしなくてはならないため、ひったくり犯などから見ると恰好の標的になってしまうのではないかという不安です。

彼女の散歩に付き添ってやるべきだった、と今ごろになって悔やみますが、もはや手遅れです。仕事で毎日13時間勤務を強いられてクタクタだったのにくわえて、そらりすの状態がそこまで悪いとは、そのときは考えてもみなかったのです。そらりすもそらりすで、私のせっかちな性格をいやというほど知っているので、遅い歩きにつき合わせるのは悪いと言っていました。たしかに一人のほうが気が楽なんだろうなと私も安易に受けとってしまいましたが、本当にそうだったのかどうか。

 

いやなエピソードがあります。紹介したものかどうか迷ったのですが、病気で歩くのが辛い方々には共通のリスクだと思うので、書いてしまいます。

バス通りの歩道で、そらりすがいつものように苦しくて足を止めたとき、後ろから来た人から、「邪魔!」と罵声を浴びせられたのです。それも、わざわざ彼女の背後に立って。

「すいません、病気で早く歩けないので、先に行ってください」とそらりすは言いましたが、それでも相手は後ろに立ったまま、「邪魔!」とくり返し言ったといいます。中年の女性で、知的障害があると思われる人だったそうです。障害だからどうだということではなく、こちらが想像もできないような理由でそんなふうな行動をとる人が現実に存在するということです。

怖かっただろうし、くやしくて、悲しかっただろうと思います。そらりすからそれを聞いたとき、私には慰めの言葉も出てこなかったことを覚えています。言えたとしてもせいぜい、暴力をふるわれたりしなくてよかったな、というくらいだったでしょうか。「これからはオレが付いて行く。もう一人で歩くな」とどうして言ってやれなかったのか? 情けないです。

 

二人で近所のスーパーに行って、そらりすが途中で座り込んでしまったしまったのはいつだったでしょうか。通院は別として、あれがいっしょに出歩いた最後だったというわけではなかったと思うですが、花火の夜だったか、もう少し後のちがう日だったのか?

ウチは川が近いので、2、3箇所の花火大会をそう遠くない距離で見ることができるのですが、その日も出かけたら建物のあいだに打ち上げられるどこかの花火が見えたのでした。やはりそらりすは少し歩いたら苦しくなって、シャッターを下ろした弁当店の店先に置かれたベンチから、しばらく花火見物となってしまいました。ドラマとかだったら、あれが二人で歩いた最後の夜ということにしてしまったほうが美しくていいのでしょう。正確なところはよくわからないのですが、数年たったら私の記憶にもそんなふうに定着してしまうのかもしれません。

 

「お地蔵さんの前まで行くだけで、お詣りはしてないな。だから病気がよくならないのかな」

そらりすが冗談で言っていたのを思い出します。

 

出歩けなくなったのが7月だったとして、それから3度目の入院~酸素吸入生活となるまでが、約4ヶ月です。入院の直接のきっかけは緑膿菌による高熱でしたが、歩けなくなった時点で症状がかなり悪化していたことはまちがいなく、このときになにか手を打つことができていればと後悔します。いや、もっと早く、お地蔵さんまでしか歩けなくなったときに。いやいや、「若冲と蕪村」展のときに。

そらりすの後を受けて続けているブログですが、私にとっては後悔ばっかりを綴る記録になってしまいそうです。