非結核性抗酸菌症そらりす

非結核性抗酸菌症の患者の日常・投薬歴・入院歴です

姉と母親について

姉と親について 書きづらいけど、親と姉の関係は最悪、でもまだ姉は親にこだわっています。

姉は私と母との電話を聞いています。母親は言うんだそうです。

 

「そらりすはどこから電話をかけてくるのか。いつも違う男のところからかけてくるけど」

 

それによると、私は59才にして、常に男は変え放題、ということになる。夫がいるんだけどんなあ、もう、そらりすモテモテじゃないの?

 

姉が言いにくそうに、言葉を選びながら、そのことでどんんなに自分がきずついたか。を訴える。自分は厳しい原理教の信者っだから、許せない。 

 

これが姉にはできない。姉はエホバの証人です。

 

はじめて勧誘されたのは11才、姉が16才私が11才のとき。

 

妙に優等生だった、賢いお子さまだった私は

しんねりむっつりと断りました。

 

親からはさしたるケアもなく。私は小学生としてマジメに生きてきて、3年生くらいの時、ずっとやっていたクラス委員に嫌気がさし、家に帰って「クラスがまとまらない」と言って泣いたことがあります。

 

クラスなんてまとまらないものだと早めに納得できたのは、読書が好きだったからです。特に昔話。 

 

「世界の民話と伝説」という全集を特に気に入って愛読していました。

 

その中に、フランスの民話が入っていて、雨乞いの話がありました。日照りに苦しむ人々にせめられた司祭は雨乞いの日取りを決めようとしますが、みんなんなの意見がまとまりません。

 

それぞれ都合があるのです。釣りに行きたいとか、祭りがやりたいとか。

 

だから、意見なんてまとまらなくてフツーなんです。

 

そこのところを姉はいまだにわかってない。

 

姉が結婚するとすぐにエホバの小冊子を送ってきました。バチカン日本人支部と言われる大学で、一般教養とはいえ宗教学を学んだ私にそういうコトやめてくれよ。

 

そもそも私が夫のアパートに転がり込んで週末同棲楽しく行っていたころ、祖母が亡くなりまして、親は私のアパートに電話しても誰もでない。

 

いちおう、お付き合いしてるコトは親に言ってあったので、夫のアパートに電話が入りました。

 

そこで急いで帰省したけど、針のムシロってやつで。

 

そんないきさつが姉に影響を及ぼしているなんて露知らず。ある時、姉にこう言われました。

 

「私が結婚するの待つ必要ないからね」

 

この人間はいったい何を言っているのかと不思議に思い、答えました。

 

「うん、気にしないよ」

 

何のこだわりもない返事です。姉の結婚話が進みはじめたのはそれからです。

 

見合いに仕方なく参加し、テキトーな服とそれに輪をかけたテキトーな化粧で参加した私は、よくある話ではありますが、見合い相手に気にいられました。

 

「とってもかわいい」

 

当時、伊藤つかさというアイドルがいたとをご存知でぢょうか。私はそんな感じでした。

 

よくわからないうちに、その話は破談になりました。

 

二回目で、東北大学出のプログラマーとの話がきました。理科系さんだし、地味だし、いまや鬼籍にはいった父親に雰囲気そっくりだし。  

 

上手くいきどうだな、と思ったらやっぱり話はすんなり決まりました。

 

結婚式も無事に終わった数日後、姉は電話でこう言ってきました。「そらりすも気をつけて、妊娠しないようにね。」

 

うるさいよ。色んな意味でうるさいよ。

 

経済的には大当たりじゃないでしょうか。高度経済成長期でバブルもはじまりました。

 

家もたてて順風満帆と思いきや、突然、電話をksけてきて、旅行に行きたいとのこと。

 

私はひとっつも行きたくないけど、断れない。希望、企画はなし、プランは私に丸投げです。

 

仕方がないので、本屋でガイドブックを買いましたが、旅行は苦手、私は方向音痴です。

 

それでも鎌倉を中心になんとか企画をたてました。名所旧跡はまあいいとして、季節は9月。最悪んsのは、大船の植物園でし。

 

マトモに花は咲いてない。それを「あれが咲いてない。汚いよね」を連発する姉。

 

ホテルに帰ってやっと食事。それでもまだ牛肉がまずいとケチをつける。  

 

やっと寝るぞと思ったら、グチグチと話がはじまりました。

 

 

 

かいつまんで言えば結婚生活がツマラナイと。

 

ツマラン両親が選んだ男にしちゃあ、マシな相手だと思うけどなあ。

 

問題はね、見合いで結婚した相手にそんな風にに期待することなんです。やっぱり体はらないとね。なんのために据え膳というものがあるんでしょうか。あなたは小町なの?針の不良品なのかな?