「猫のように生き、コアラのように死にたい」と若いころ思っていました。
「猫のように生き、コアラのように死にたい」と若いころ思っていました。
「猫のように」は今猫ブームで多くの人が感じているとおりですが、「コアラのように」は、いわば私のオリジナル。
どこかの動物園の園長先生がコアラについて語っていたことがとても印象的だったのです。
「どんな動物でも、病気になったらなにか治療になるような行動をする。たとえば、腹をこわしたら特定の草を食べるとか。ところが、コアラという動物にはそれがない。何することもなく、いつものようにただ木にしがみついて粛々と死に向かっていく。こんな不思議な動物はコアラ以外に見たことはない。」
若き日の私はなぜかこのコアラの死にざまに妙に心をうたれ、それで「猫のように生き、コアラのように死にたい」と思うようになりました。
それから歳月が流れ、非結核性抗酸菌症にかかって10年の私は、いろんな症状・副作用で苦しみながら、検索しまくったり、薬を変えてもらったり、オプショナルな点滴治療を試したり、漢方薬局にいったりと、ひたすらあがく日々。
何することもなく、粛々と死に向かっていくコアラとは大違いです。悪あがきしまくり。
コアラの死にざまに憧れることができたのは、若かったからなんだな、と今では思います。
若くて死というものからあまりにも遠く、夢も希望も理想も、今よりはあったけど、それゆえに生きていることがむやみに苦しい、そんなふうだったんだな、と。
コアラよ…死を前にしたオマエサンはどんな気持ちなんだい?粛々とってどんな感じ?
昨日テレビを見ていたら、オーストラリアの山火事のニュースをやっていました。逃げ遅れたコアラが燃え上がるユーカリの林で、救助される映像が映し出されていました。
お尻に火がつきそうなそのコアラは救助される瞬間、上を向いて苦しそうに鳴きました。
その声は苦しく、情けなく、でも「生きたい」という叫びに満ちていました。
そうか…ごめんね、コアラ。私は勘違いしていたのかもしれない。
「粛々と」の中身なんてだれにもわからない。ニンゲンが勝手にとっつかまえて入れた動物園でそう見えただけかもしれない。
それを中二病をひきずった若い娘がテレビで見て、見当違いに憧れただけなんだよ…だから、ごめんね。
救助されたそのコアラは「ルイ」という名前だったそうです。その後、火傷の回復が遅れて助かる見込みがないので、安楽死という結末になってしまいました。
ルイのあの叫び、忘れないでいよう。なんとなく、そう思います。