非結核性抗酸菌症そらりす

非結核性抗酸菌症の患者の日常・投薬歴・入院歴です

抗生剤3

抗生剤を止めていたときのことを、そらりすは書いていたでしょうか? 書いてたとしたら、どんなふうに? (読めばいいんですけど)

 

ぶっちゃけて言ってしまえば、漢方薬を始めたのをきっかけに、処方されたクスリを服むのを勝手に止めてしまったのでした。

一昨年(2019)だったか、春だったと記憶しているのですが、処方された抗生剤が効いている実感はありませんでした。むしろ、食欲不振と体力減退の要因にしかなってないように思えました。

かといって、漢方薬が効くという保証があるわけでもありません。藁にもすがる、という思いです。

漢方の薬剤師が抗生剤に否定的だったことにも背中を押されました。

ただ、薬剤師には処方箋を書いたり服用しているクスリを止めさせたりする権限はなく、決断したのはあくまでもそらりすと私であることは断っておく必要があります。

またまた「今さら」の話ですが、「漢方を試したい。抗生剤は止めたい」と正直に話したら、ドクターはなんと言ったでしょうか? 案外あっさりOKしてくれたかもしれません。

要するにこういうのはドクターの性格の問題じゃないかという気もします。自分のやり方に固執するタイプだったら、有無を言わさず否定されたでしょう。ドクターが自信を持っているとかいないとかいうことではありません。非結核性抗酸菌症の治療方法には今のところ決め手となるものはなく、患者の状態によっても対応が変わるはずですから、なにが正しいかわからないのが現状だと思うのです。

 

理想を言えば、ドクターと漢方薬剤師、そしてリハビリの専門家が集まって、数ある治療方法の選択肢から・・・

 必ずやらなければならないこと

 やってもやらなくてもいいこと

 やってはいけないこと

をそれぞれ挙げてもらい、これらを整理して、個々の患者に合ったメニューを組んでもらえるようになればいいんです。そして、病状の変化に応じてやり方を調整する。

 

しかし、私たちは漢方のことをドクターに隠し通すことになってしまいました。通院のたびにもらう処方箋は無視です。

結果、解熱剤は必要なのにアセトアミノフェンは入手できなくなるので、市販薬に頼りました。間の悪いことに、コロナ禍でアセトアミノフェンが品薄で、私はしばしばドラッグストアをハシゴしてタイレノールなどを買い集めなければなりませんでした。そらりす自身も、通販でタイ製を取り寄せたりしていました。

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まあ、処方箋通りにクスリは出してもらって抗生剤だけ服まないようにするという方法もあったわけで、その代金はムダになったとしても、市販薬は保険適用でないから、懐具合にたいして影響はなかったのかもしないのですが。

それ以上に気になるのは、抗生剤を止めていたことが果たしてそらりすの病状を悪化させたのかどうかということです。去年(2020)秋、高熱を出して緊急入院したとき、そらりすはドクターに告白したのかどうか? 彼女に尋ねてなかったことに今気がつきました。

抗生剤を止めたのが誤りだったとしたら、そらりすと私は大バカです。今のところは、もやもやしてはいますが、これに関しては、すごく悔やんだりしているわけでもありません。

 

漢方薬については、初めのうちは効いていたような気がします。気のせいかもしれません。しかし、このパターンは、抗生剤の種類を変えたときもおなじなのです。

 

抗生剤は、ここというときに集中的に使えばとても有効で頼りになる味方です。

しかし、効果が見られないならさっさと止めたほうがいい。

そして、これといって手の打ちようがないときは、漢方や排痰リハビリなどで体力の維持・回復、苦痛の緩和を図る。

 

結核性抗酸菌症という捉えどころのない病気の場合、とりわけ多面的で柔軟な対応が必要で、そのためにも従来の枠組みを超えたシステムが求められると思います。ドクターに隠れてこっそり漢方薬局に通うとか、そんな不倫みたいな後ろめたさを患者が感じなくてすむ日が早く来ることを望みます。

 

抗生剤2

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写真の器具の正式な名称はわかりません。そらりすが抗生剤の副作用による筋肉痛に見舞われていたころ、立ち上がるのに使っていたものです。

横になった姿勢から立ち上がるという、ふつうの人ならなんでもない動作ができなくて、この器具につかまってやっと上体を支えることが可能になったのでした。

痛くて動けない。動かないから筋肉が落ち、体力が衰える。病気がますます治らなくなる。

 

あくまでも素人の私見として言うのですが、抗生剤が悪く働いた場合は、単なる副作用を超えて、病気を悪化させてしまうのではないでしょうか。

そらりすには視覚障害がひどくショックだったのでしょうが、身体をじわじわと弱らせることのほうが実は害が大きいと思います。

なかでも私が訴えたいのは、まえにも書いた「食べられなくなる」ことです。

多くの抗生剤がそうだと思いますが、副作用として「食欲不振」になる恐れがあるとされています。歯を抜いたときに処方された抗生剤で胃腸の具合が悪くなった経験は私にもありますが、何年も抗生剤を飲み続けたそらりすの身体にはいったいどんなことが起きていたのでしょう?

そらりすが「食べられない」ことに悩んでいた原因は、もともと食が細かったこと、病気そのものによる胃腸機能低下などもあるのでしょうが、抗生剤がそのひとつだったと私には思えてならないのです。

 

悪い菌を殺して副作用が限定的なものであるなら、抗生剤は有効です。

効果 < 副作用 の場合も、止めどきは見極めやすいでしょう。

 

食欲不振は副作用としてはあまり目立たないので、そこが厄介です。

視覚障害のとき服用を止めたのは『賢明でした』と言われたんだ。食欲不振も副作用なんだから、止めていいんじゃないか? それに、効いたとしても、耐性菌ができるまえに止めたほうがいい」

というようなことを、そらりすと私は何度となく話し合ったのを覚えています。

今思うのは、それを早い段階でドクターに相談すべきだったのです。ただ、「クスリは効いてない気がするし、食欲がないのもクスリのせいじゃないかという気がする」という「気がする」レベルの話では、なかなか言い出せませんでした。

私たちは、「話をするからにはきちんと話そう」と考えすぎていたかもしれません。どうせこっちは素人なんだから、気になることは無邪気に口にして、ドクターを怒らせたらそれはそれで仕方ない、ぐらいに思っていればよかったのかも(クレーマー体質の人やもともとおしゃべりすぎる人は逆に自制が必要でしょうが)。彼女がひとりでは話し出しにくかったのなら、私が同行すればよかったです。通院に付き添いが必要なくても、病気にはふたりで対処しようと考えるべきでした。

 

病気が悪化してからは、どんなクスリを服用すればいいのか、私たちとドクターはよく話し合いました。非結核性抗酸菌症には「これを服んでおけばOK」というクスリがなく、副作用のせいで服めないクスリが次々とわかって来ると、ドクターの選択肢も少なくなってしまうという事情もあります。

最後の期間に処方されていたのはエリスロシンです。

「高齢者とか、服めるクスリがなくなった人に出すクスリだよ」とそらりすは言っていました。彼女は熱心に勉強していたので、服めそうな抗生剤のおそらくすべてについて知識を持っていました。ただ、少し遅かったかもしれません。そして、最後のエリスロシンも、服む必要があったのかどうかわかりません。そらりすがどんなふうに考えていた、この件については突っ込んで話すことはありませんでした。

 

結核性抗酸菌症と診断されたら・・・

抗生剤についてできるだけ早く勉強したほうがいいです。で、疑問に思ったことは素直にドクターに質問してください。そして、患者の身近にいる全員で協力して病気に立ち向かってください。早く対処すれば、決して治らない病気ではないはずですから。

 

ただ、くり返しますが、素人の意見ですから、判断はご自身でお願いします。あくまでも参考にしていただけたら、そらりすがこのブログを始めた意義もあると思います。

 

抗生剤

医療のド素人なりの私の考えを先に言ってしまうと、抗生剤はとても有用な人類の発明であり、同時に、ヘタな使い方をすると害になってしまうこともある諸刃の剣だと思っています。

 

結核性抗酸菌症の場合、抗生剤の上手い使い方とは、病気の初期段階で複数剤を併用してしっかり投与すること。私は自分で勉強したわけではなく、あくまでもそらりすの受け売りなのですが、悪さをしている菌が何であるかを特定するのがむずかしいので、「数撃ちゃ当たる」式かつ力任せにぶっ込んでしまうしか方法がないのだと理解しています。

口惜しいのは、そらりすがそれを知ったのも後になってからで、発症初期には方針がブレにブレた中途半端な治療を受けてしまったことです。

たぶん、そらりすは既に書いていると思いますが、クリニックがジェネリックを処方しなかったとか、「粉末が服みにくい」と訴えたらクスリの量自体を減らされたとか、医師の責任・技量を疑わざるを得ない経緯もありました。ただ、ドラマに出て来る医師のような天才を一般の医師に求めるのは無理でしょうし、非結核性抗酸菌症の治療方法が今もって確立されていないこと、複数剤併用でも彼女が完治できたとは限らないことを考えると、この場で個々の医師を断罪しても得られるものがあるとは思えません。それよりも、この病気の初期段階におられる方が私たちとおなじ失敗をしないですむように、実例(サンプル)を提供していきたいと思っているだけです。

 

複数剤併用が中途半端だった結果、菌をしっかり叩けなかったのは残念極まりないことでしたが、同時に、耐性菌という厄介なものをつくってしまいます。抗生剤が菌に効かなくなることは、治療法がひとつ完全に失われてしまうことを意味します。そして、運が悪ければ副作用が出ます。

 

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そらりすのお薬手帳の副作用歴の欄には、次のように記されています。

 テオロング(息が苦しくなる)

 エサンブトール(視力障害)

 クラビット(頭痛かもしれない、確証なし)

 ミコブティン(視力障害、筋肉痛)

 

彼女にとってはどれも深刻な事態でしたが、エサンブトール(エタンブトール)のときは、そばにいるだけの私にもかなりインパクトがありました。

そらりすはアートに携わっていただけあって色彩にはとてもこだわりが強く、赤系の色が見えなくなったことにひどくショックを受けていました。副作用ということはすぐに推測できたので、服用を止めれば治るだろうとは思うものの、確証が得られないうちはメンタル的にきつかったことと思います。

主治医に相談するまえに眼科を受診したのは、年末年始で主治医が休みだったのか、そのあたりの経緯はよく覚えていません。とにかく、通院している病院に電話をしてエサンブトールの服用を止めていいかと当直の医師に訊いたら、「年が明けてから主治医の診察を受けてください」と言われたのでした。それで、居ても立ってもいられなくて、年末も診察している眼科を訪れたのだったかもしれません。ところが、近所の眼科では、エサンブトールとの関係はわからないので、やはり「主治医に訊いてください」とのこと。そらりすは、数駅離れた別の眼科を探して再度受診したのでした。そこで、副作用にはまちがいないと思うとの答えはもらったものの、それでも服用を止めるかどうかの判断は自分にはできないと言われました。大晦日かその前日のことだったはずです。

結局、そらりすは自分の判断で服用を止めたのでした。

そして年明け、主治医に経緯を報告して言われたのが、「それは賢明でした」

 

なんだよ、と言いたいです。

激務の医師に休みは必要。もちろんわかります。だから、こういう場合のためのシステムを、もうちょっとなんとかできないものか。

急に服用を止めるとよくないクスリがあることも聞いてはいます。しかし、この場合のエサンブトールはそうではないでしょうし、他の医師にも判断ができるようにしといてもらいたいものです。素人の患者本人が服用中止を決断したときの不安がどんなものか、考えてもらいたい。あるいは、患者本人の裁量に任せる部分を増やすなら増やすで、そういう制度を整備するとか。

 

それとは別に、抗生剤はだらだらと長期にわたって服用するもんじゃない、ということもあると思います。

何年も抗生剤を服み続けて来たことによるダメージが、そらりすの身体には少なからずあったと私は思っています。「抗生剤は諸悪の根源」的な考えにはまって、しばらく抗生剤を止めていた時期もあります。逆に、そのせいで病気が悪化したのかもしれない、と悔やむ気持ちも同時に抱えています。

そらりすの場合どうするのが正解だったのか、私に答えが出せないことはわかっていますが、このあたりのことについてはまた書きます。

カエルか鳥か? ちょっとひといき

そらりすのあとを受けて、行き当たりばったりに書いています。ブログの機能も使いこなせてなくて手探り状態なのですが、読んでくださっている皆さま、ありがとうございます。

最後の数ヶ月間、ほぼ一日中をベッドで過ごすしかなかったそらりすには、このブログを書くことが心の支えになっていたように思います。「今日はこんなことを書いたよ」とか「コメントをもらったよ」とか、うれしそうに話していました。タブレットという便利なもののおかけで、寝たままで世の中と多少なりともつながることができたのはよかったです。

夫の私はまだ彼女が書いたものを読んでいないのですが、「リンパ球をおぎなう」に星をつけていただきましたので、それだけさっき目を通しました。

カエルか鳥かわからないぬいぐるみとはこれです。入院中の彼女に送った、まさにその写真なのですが、スマホのカメラの調子が悪くてピントが合ってませんね。

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結婚するちょっとまえ、返還前の香港に旅行したお土産として、突拍子もないデザインに心惹かれ、ただ彼女をびっくりさせることのみを目的に買ったものです。私の読みは当たって、そらりすはこの変なぬいぐるみをとても喜んでくれました。

カエルか鳥かということもさることながら、どういうコンセプトのものなのかもわかりません。わりとおしゃれなギャラリーのようなスペースで売られていて、おなじ作風の巨大なキリンとか、いろいろ並んでいたなかで、高さ40㎝のこれがいちばん小さくてお手軽でした。あれこれ質問して来ればよかったのですが、今となっては私たち夫婦とともに36年間過ごして来た仲間というだけで十分で、こいつがホントは何者かということはどうでもいいです。

モルヒネ

余命1ヶ月の花嫁」といえば泣ける映画として知られているのでしょうが、原作はノンフィクションです。この本では、末期の乳がんと闘う患者が、苦痛をやわらげるためのモルヒネ投与を拒否していました。モルヒネはたしかに苦痛を緩和してくれるが、意識も麻痺してしまうため自分がこの世からいなくなってしまうのとおなじだから、というのが理由でした。

そんなふうに、モルヒネなどというものはめったなことで使う薬じゃないというイメージがありましたし、そらりすがドクターから「服んでみる?」と打診されたと聞いたときは、なんというか、変な気持ちでした。「モルヒネなんて大ゲサな」というのと、「お手軽なモルヒネもあるのか」と少し驚いたのが混じった感想というか、ともあれ、彼女が重症だと考えたくないという思いが強かったからでしょう、結果として無関心みたいな反応になってしまったかもしれません。

 

病人に付き添う家族なら誰だってそうだろうと自分を慰めるのですが、そうです、私はそらりすの病状や苦痛が深刻なものだと思いたくありませんでした。そうやって、たぶん無意識のうちに、ずっと呑気を装ってきました。処方されるモルヒネ剤も、末期がん患者向けのそれとはちがうごく軽い薬だと考えたかったのです。

しかし、今、そらりすを失ってしまうと、そうじゃなかったのかなという気もして来るのです。

ドクターに会う機会があったら訊いてみたいのですが、そらりすにモルヒネを処方したのは、そうしなければならないほど状態が悪かったということなのでしょうか?

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そらりすに処方されたモルヒネは、商品名はオプソ、ゼリー状の内服薬です。やはり、他の薬とおなじというわけにはいかなくて、30包分の処方箋となると調剤薬局の在庫が足りず、後で配達してもらう場合もポストに入れるのはダメで直接手渡しという規則があります。

市立病院のドクターはこれを一日何回まで服んでいいと言っていたか、私ははっきり覚えていません。4回だったか、6回だったか。服用から服用まで1時間あいていればいい、とお薬手帳には記載があり、辛いときはためらわずにどんどん服んでかまわないというのがドクターの方針だったようです。食事のまえとか入浴のまえとか、身体に負荷をかけるときの予防策としても有効だとのことでした。

 

それで、オプソはそらりすの助けになっていたのかどうか? 「効いている」とは言っていましたが、私にはなんとも言えません。そもそも彼女の苦痛がどんなものかわかってないのですから。

服用を始めたのもいつごろだったか? お薬手帳では、平成31年2月のあとがずっと抜けていて、かなり後の令和2年11月にオプソの処方があります。令和2年(2020)11月は3度目の入院のあとですから、この入院のタイミングが服み始めだったのでしょうか。

そらりすは、オプソをかなり慎重に、本当に具合の悪いときだけ服んでいたと思います。それでも、亡くなる1ヶ月まえ当たりは、朝昼晩と服むようになっていたでしょうか。

 

ときどき変なことを言ったのは、薬のせいだったのかどうか・・・? 若いころから彼女には天然なところがあって、突拍子もないことを口にするのは珍しいことではなかったし、単に発熱や苦しさから平静を失っていたとも考えられますが。

最後の入院のあとだったか、私に転職しろと言ったことがありました。たしかに会社の待遇が悪いことは以前から話していましたし、結果的に私は退職してしまうことにはなるのでそらりすは正しかったのですが、彼女の言い方が「ネットのニュースで働きがいのある職場について書かれているのを読んだからあなたもすぐにそれを読め」みたいな感じで、働いて疲れて帰ったばかりのところへ唐突に言われたので、私も少し腹を立てました。ブラックな会社ではありましたが、仕事としてやっているからにはちゃんとやろうと思ってもいましたから。

翌日だったか翌々日だったか、「ものすごく失礼なことを言ってしまったよ、謝るよ」と彼女はLINEにメッセージをくれましたが、あれはいったいなんだったのか。とりあえず、最後の夫婦ゲンカということにしときましょうか。

 

訪問診療のドクターから、余ったオプソは薬局に返してくださいと指示があったので、葬儀の後だったか、早々に返して来ました。あれこれやることがあるようでないようで、なにから手を着けたらいいかわからない状況で、この作業は引き籠もりにならないために出かけるいいきっかけにはなりました。

 

お地蔵さんまで

サントリー美術館伊藤若冲与謝蕪村の展覧会が開かれたとき、ひさびさに二人で都心に出かけました。夕方、閉館が近い時刻であったため、地下鉄の改札を出たところで、「急ごう」と私はそらりすを急かせました。けれども、少し早足で歩いたら彼女の足は遅れ始めました。

「ダメ、ちょっと無理」申し訳なさそうにそらりすは言いました。

ほんの少し早く歩くこともできないレベルにまで病気が進行していたんだな、と今になって気づくのですが、そのときの私は、一時的な不調という程度にしか捉えていませんでした。

若冲と蕪村」展が開催されたのは2015年3月~5月です。美術館のホームページで調べてみて、ああなるほどと思いました。そらりすが1回目の入院をするのは、約半年後、翌2016年の年明け早々です。

発症が2009年。頭痛とか帯状疱疹とかに悩まされながらもどうにかふつうの生活ができていた時期が終わって、息苦しさとの闘いのフェーズに入ったのが、約6年たったこのころだったと今になって思います。

 

この息苦しさという症状ですが、それがどんなものなのか、当事者ではない私には正直いってわかりません。風邪をひいて鼻がつまったときやプールに潜ったときのあの感じかな、と想像はしてみても、想像は想像にすぎません。

 

息苦しさはその後の数年でだんだん度を増して、そらりすが外を出歩くことができなくなったのは、去年(2020)の7~8月ごろではなかったかと思います。

わずか一年まえのことなのに、いろいろあったせいかはっきり思い出せないのですが、少なくとも去年の今ごろまで、そらりすは月一回の通院には一人だけで出かけていました。自宅からバス停まで、健康な人なら3分、乗車5分、バスを降りて病院の受付まで2分くらいの道のりですが、付いて来てほしいと私に言うことはありませんでした。しかし、本格的な夏に向けて、暑いなかでの外出は身体に負担が大きいし、コロナの不安もあったため、ドクターと相談して受診は秋まで見合わせることにしたのでした。

通院を中断してすぐに外出もやめてしまったというわけではなかったはずですし、近所のスーパーに買い物に行くくらいのことはできていたのではなかったでしょうか。買い物も辛くなって、もっと近い距離の散歩だけになったのはいつごろだったか? それとも、買い物に出る必要がなかった日でも、少しは歩かなきゃと散歩をしていたのだったか……?

散歩のコースは、自宅近くのお地蔵さんの小祠まで。健康な人なら2、3分ですが、そらりすは往復に15分くらいかかっていたでしょうか。

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「どこまで行って来たの?」

「お地蔵さんまで」

というのが、そのころの私たちの会話のパターンになっていました。

調子がいいときは、もうちょっと足を伸ばして細い道から先のバス通りに出る地点まで。それでも、最寄りの駅までの距離の半分にも満たなくて、もっと歩けるようにならないとなあと私は正直なところじれったかったのですが、長時間歩くことには、単に身体的な辛さとは別の悩みもあったようです。

それは、ゆっくりゆっくりと歩を進める上にときどき立ち止まって休んだりしなくてはならないため、ひったくり犯などから見ると恰好の標的になってしまうのではないかという不安です。

彼女の散歩に付き添ってやるべきだった、と今ごろになって悔やみますが、もはや手遅れです。仕事で毎日13時間勤務を強いられてクタクタだったのにくわえて、そらりすの状態がそこまで悪いとは、そのときは考えてもみなかったのです。そらりすもそらりすで、私のせっかちな性格をいやというほど知っているので、遅い歩きにつき合わせるのは悪いと言っていました。たしかに一人のほうが気が楽なんだろうなと私も安易に受けとってしまいましたが、本当にそうだったのかどうか。

 

いやなエピソードがあります。紹介したものかどうか迷ったのですが、病気で歩くのが辛い方々には共通のリスクだと思うので、書いてしまいます。

バス通りの歩道で、そらりすがいつものように苦しくて足を止めたとき、後ろから来た人から、「邪魔!」と罵声を浴びせられたのです。それも、わざわざ彼女の背後に立って。

「すいません、病気で早く歩けないので、先に行ってください」とそらりすは言いましたが、それでも相手は後ろに立ったまま、「邪魔!」とくり返し言ったといいます。中年の女性で、知的障害があると思われる人だったそうです。障害だからどうだということではなく、こちらが想像もできないような理由でそんなふうな行動をとる人が現実に存在するということです。

怖かっただろうし、くやしくて、悲しかっただろうと思います。そらりすからそれを聞いたとき、私には慰めの言葉も出てこなかったことを覚えています。言えたとしてもせいぜい、暴力をふるわれたりしなくてよかったな、というくらいだったでしょうか。「これからはオレが付いて行く。もう一人で歩くな」とどうして言ってやれなかったのか? 情けないです。

 

二人で近所のスーパーに行って、そらりすが途中で座り込んでしまったしまったのはいつだったでしょうか。通院は別として、あれがいっしょに出歩いた最後だったというわけではなかったと思うですが、花火の夜だったか、もう少し後のちがう日だったのか?

ウチは川が近いので、2、3箇所の花火大会をそう遠くない距離で見ることができるのですが、その日も出かけたら建物のあいだに打ち上げられるどこかの花火が見えたのでした。やはりそらりすは少し歩いたら苦しくなって、シャッターを下ろした弁当店の店先に置かれたベンチから、しばらく花火見物となってしまいました。ドラマとかだったら、あれが二人で歩いた最後の夜ということにしてしまったほうが美しくていいのでしょう。正確なところはよくわからないのですが、数年たったら私の記憶にもそんなふうに定着してしまうのかもしれません。

 

「お地蔵さんの前まで行くだけで、お詣りはしてないな。だから病気がよくならないのかな」

そらりすが冗談で言っていたのを思い出します。

 

出歩けなくなったのが7月だったとして、それから3度目の入院~酸素吸入生活となるまでが、約4ヶ月です。入院の直接のきっかけは緑膿菌による高熱でしたが、歩けなくなった時点で症状がかなり悪化していたことはまちがいなく、このときになにか手を打つことができていればと後悔します。いや、もっと早く、お地蔵さんまでしか歩けなくなったときに。いやいや、「若冲と蕪村」展のときに。

そらりすの後を受けて続けているブログですが、私にとっては後悔ばっかりを綴る記録になってしまいそうです。

 

食べるということ(続き)

コメントをくださった方、ブログを読んでくださっている方にお礼を申し上げます。

 

そらりすにとっての「食べること」について、思い出したことをもう少し続けます。

 

栄養が少しでも摂れる食事について研究しようと思って、本を一冊買ったことがあります。本格派のとても手の掛かる調理法で有名な料理研究家が、病人向けのスープのレシピをまとめた本だったのですが、これを手渡したとき、そらりすは珍しく怒りました。

「ふつうに料理することもできなくなってるのに、こんな大変なことができるわけないじゃないか」

というのです。

私としては、「この本読んで自分でつくれ」というつもりで買ったわけではなく、本の通りの料理はできなくても参考になる情報があったら取り入れよう、食べたいと思うレシピがあったら真似してみよう、むずかしいことはやらなくていい、料理は自分がやるが気が向いたらいっしょにつくってもいい、というほどの気持ちだったのですが、説明しても受け入れそうにない雰囲気が彼女にはありました。ふだんなら話してわからないような人ではないなのですが、議論を続けるのは憚られる気がして、結局本は棚に飾られるだけになってしまいました。

そのときのそらりすの胸の内が、正直いって私にはよくわかりません。なんとなくはわかるのですが、どうしても他者には理解が及ばない、彼女だけのブラックボックスのような領域があるような気がします。それは、病気と闘っている当事者にしかわからない、ある種の絶望的な気分であったのでしょうか。

 

病人に限ったことではなく、人が人を100%理解することなどそもそも不可能なのかもしれません。できるのは、ただ寄り添うこと。

そうやって自分を納得させようとしても、それでもやはり納得できないところは残るのですが……

 

 

こだわりの超絶スープは拒否したそらりすですが、カップ麺はよく食べていました。マルちゃん麺づくりの味噌がずっと好きだったのが、あるときから担々麺に変わって、最後の日々は、少し調子がいいときにはそればっかりでした。宅配サービスや病院の食事の薄味とは対極の、ピリ辛濃厚味です。

当人が好きなのだから、それが正解だったのだと思います。食べたくないものを無理に食べようとして結局食べられないよりは、食べたいものを食べる。

残念なのは、週に一食か二食が限界だったこと。毎日食べられていたなら、体重も維持できていたのでしょうが。

 

「パンが食べられないならケーキを食べればいいのに」と言ったのはマリー・アントワネットだそうですが、そらりすの場合は、「ご飯が食べられないなら麺づくりを食べればいいのに」といったところでしょうか。

ジャンクでもゲテモノでもいいから、そらりすのノドを通る食べ物を見つける努力を、もっと早く始めていればよかったです。

 

最後の数週間は、イチゴしか食べられない日が多かった、と前回書きました。これなら食べられるのでは、と考えて用意したものがやはり彼女の口に合わなくて、がっかりしたことも少なくありませんでした。正直、毎日しんどかったです。けれども今、自分ひとりのための食事の準備をするのは、とてもつまらないです。

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