非結核性抗酸菌症そらりす

非結核性抗酸菌症の患者の日常・投薬歴・入院歴です

病気関係の検索がやめられない

ときどき病気関係の検索がやめられなくなります。体力落ちてるんだからやめればいいのに、やめられない。その手の本を探すのもやめられない。

 

なにかいい治療法はないものか。ネットには膨大な情報があり、テレビでは難病から回復した患者の感動的なドキュメンタリーをやっているのに、最新科学の精華を誇るような番組をやっているのに、なぜ私の病気は治らないんだろう。非結核性抗酸菌症の画期的な治療法くらい、あったっていいじゃないか。

 

そう思って検索をやめられません。

 

そんなとき、ガンの代替医療にはまって死をはやめた芸能人の記事に、たまたま当たったりします。金の延べ棒にさわる治療、酵素風呂、絶食療法…あーあ。

 

記事を読むと、「わらにもすがる気持ちで」という表現が必ずといっていいほど出てきます。

 

決まり文句だよね。別に間違っていません。そのとおりなんだし。なのにこの言葉に妙にカチンとくる。なぜだろう。

 

自分が今やっている検索しまくりを「わらにもすがる」行為と言われたような気がして、それで不愉快なのかもしれません。

 

私はわらにすがっているつもりはありません。でも、あやしい代替医療にひっかかった人たちのだれが「自分はわらにすがっている」と思ったことでしょう。

 

今の患者の多くは、患者の家族も含めてネットが使えます。深刻な病状であるほど検索し、本を読んで情報を集めていると思います。だって、これだけ情報があるわけですから。代替医療で命をおとした芸能人やその家族だって、検索はしたでしょう。

 

最初は医療系のサイトをみて、医師の書いた本を探す。別の医師にかかってセカンドオピニオンを得るかもしれないし、まだ可能性のある時期です。

 

でもいくら探してもセカンドオピニオンをもらっても、主治医の宣告どおりのことしかなかったら、どうするのか。

 

私なら別の情報を探して別のサイトにいくでしょう。別のサイトでもなければまた別のサイトへ。

 

こうしているうちに、どんなサイトにたどりつくのか。

 

私は冷静に検索しているつもりだけど、そうじゃないかもしれない。「わらにもすがる」という言葉でそのことをズバッと言われたような気がして、たぶんそれで不愉快なんだと思います。

 

冷静な検索は、私の心の底にあるコドモみたいな声、つまり「魔法みたいに治る方法がほしい」という心の声にこたえてはくれません。だから、冷静でない検索がはじまる。検索をやめられない状態というのは、ちょっとあやしい。冷静でない検索がはじまりかけている。

 

 これだけ情報があるのに、自分の病気を治す情報だけが見つからないなんて、そんなことがあるなんて許せない。現代人特有で傲慢な感情ではあるかもしれませんが、昭和の時代とはだいぶ違うやり方で苦しむ患者の姿を、「わらにもすがる」という手あかのついた表現で言ってほしくない。

 

そんなふうに思うのは、私が明らかに患者側だからかな。健康な人はこんな言葉ひとつでカチンときたりはしないかもね。