肺病で亡くなった叔母のこと
体重30キロはじめてきったころ、ショーウィンドウに映る自分の姿を見て、「あれ、K代さんがいる…」とぎょっとしました。K代さんというのは、私の叔母で、父の妹にあたります。私の母は結婚したてのころ、このK代さんという小姑にさんざんいびられたようです。
その母をいじめたK代さんにそっくりの姿が、ショーウィンドウに映ってこちらを見ています。
まだ私が小学生のころ、結核病院を入退院していたらしいK代さんがふいに家にくることがありました。なぜか平日の昼、小学生の私しかいないときに来て、母がいないか聞いて帰ります。勤め人だった父がいないのはわかっていたと思います。
このときのK代さんは、子供の私に特にイジワルもいませんでした。ただ、きまり悪そうに帰っていったように思います。
小学生の女の子は100パーセント母親の味方です。でも、さんざんイジワルだと聞いていたK代さんがそのとき普通の態度だったことが子供心に意外でした。
その時のK代さんの感じと、今の私がそっくりで、私はなんとも言えない気持ちになりました。
ごめんね、お母さん、お母さんがきらいだった人に私そっくりになっちゃったよ…
K代さんがどうしてふいに家を訪ねてきたのか、若いときにはわかりませんでした。母も父も何も言わないし、聞いてはいけないムードだったから。でも、今ならわかります。お金をせびりに来ていたんだと思います。
K代さんもうずいぶん前に結核病院で亡くなりました。考えてみれば、私は肺の病気になりやすい血筋を私は色濃くひいていたのです。実際、私が成人するまで、母は結核には神経質なまでに気を配っていました。
時代がバブルを迎えるころには、結核は完全に過去の病気という感じになっていましたが、非結核性抗酸菌症というのはまったく盲点でしたね。もっともっと気をつけるべきだったかもしれません。
ガラスの中のK代さんそっくりの自分を見てつい考えます。K代さん、あなたはどんな人だったの?私は母親から聞いたあなたしか知らない。
K代さんも母以外の人間に対しては態度がちがっていたのかもしれません。パートで周りのもめ事をさんざん見た結果、誰に対してもすべてイジワルという人は案外いないものだということを私は知りました。
事実婚らしき相手がいたことを私の母親はだらしないと怒っていたけど、その男の人には甘えたりしたのかな。ばかに機嫌よく笑ったりする日もあったんだろうか。
もうとっくに亡くなってしまっている、よく知らない叔母のことを考えていたら、なんだか涙が出てきました。こういうのも一種の供養なのかな?なんて、命日すら覚えていないくせにね。